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ENRiEDO -厭離穢土-

2019  流木
M o n s t e r E x h i b i t i o n2019 最優秀賞受賞

この年、友人のAが炎上しました。
SNSで全国的に騒がれ、ネットニュースに載り、これまでのAの言動全てが疑いの的となり、家族や関係者に好奇の目が向けられたため、Aは大切にしていたものを失いました。
Aとその周りと関係のあった自分はその様を見て、怒りや悲しみよりもまず最初に「汚された」という生理的嫌悪に似たものを感じました。Aとその周りが築いてきたものを美しいと感じ、その築いたものが素敵な未来に繋がるよう願っていたからです。
私は身近な人がスマホの画面の中で炎上している様を見て、何か太刀打ちできない強大な力を感じました。いくらAに対して弁解をしても誤解を解こうとしても理解されない、それどころか余計燃え広がってしまう、そんな有無を言わせない力を感じました。
Aに関してそれまで「美しい」とされていた事柄全ては「汚れている」に変わりました。
同じAを見ているはずなのに、そこから導きだされる結論がいとも簡単に真逆にひっくり返る世間の感性はどこか狂信的ですらあり、その中に放り込まれたAはまるで「供物」のように見えました。

人々は、何に向けて、Aという「供物」を捧げたのでしょうか。
「厭離穢土」は仏教で
「穢れた現世が嫌で離れてしまいたい、極楽浄土へ行きたい」という意味です。
また「ENREDO」はポルトガル語で「もつれあう」という意味で、そこから転じて
サンバにおけるテーマやテーマ曲という意味でも使われます。
私は汚れているこの世界も好きなので、まだこの世界を離れたいとまでは思えません。
もしかしたら、炎上の匂いを嗅ぎつけては新しい「供物」を彼らの「神様」に捧げ続ける人こそ「厭離穢土」の念を心の底に抱いているのではないか、というようなことを考えながら彫りました。

絡まりあい、うねる流木の中に浮かぶ仏とも人ともつかない顔たちは、恍惚にも、苦悩にも、滑稽にも映ります。
見る人によって闘いに見えたり、踊っているように見えたり、或いは死の間際のようにも死後のようにも映るかもしれません。それは人それぞれだと思いますが、
見る人すべてへの「供物」となるよう願います。